名媛記 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)私《わたくし》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)五|分《ぶ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)[#5字下げ]上[#「上」は中見出し] (例)※[#「郷」の「即のへん」に代えて「皀」、以下「郷」で表示] (例)※[#「示+見」、第3水準1-91-89] ------------------------------------------------------- [#5字下げ]上[#「上」は中見出し] 「私《わたくし》の故郷《ふるさと》[#底本では「郷」は「即のへん」に代えて「皀」]の、亞米利加《アメリカ》の大《おほき》な竹藪《たけやぶ》には、尾《を》の尖《さき》に樂器《がくき》を持《も》つた蛇《へび》が棲《す》んで、其《それ》が通《とほ》る時《とき》にはチリチリといふ音《おと》がするんですよ。  それから、大《おほき》いの、毒《どく》[#底本では「毒」の「毋」は「母」]のあるの、色《いろ》の美《うつく》しいの、優《やさ》しい性質《せいしつ》のもあります。よく人《ひと》に馴《な》れて、ヘ《をし》へると藝《げい》を覺《おぼ》えるのもあります。蛇《へび》の種類《しゆるい》は數《かぞ》へ切《き》れないほどある中《なか》に、おもしろいのは其《そ》の尾《を》の鳴《な》るのと、最《も》う一種《いつしゆ》、連續蛇《れんぞくじや》[#底本では「續」は「いとへん+賣」]といひまして、五|分《ぶ》一|寸《すん》位《ぐらゐ》づゝに、體《からだ》を刻《きざ》んで打棄《うつちや》ると、フツといつて、一切《ひときれ》が天窓《あたま》、フツといつて、又《また》一切《ひときれ》が胴《どう》に附着《くツつ》いて、そして※[#「示+見」、第3水準1-91-89]《み》て居《ゐ》る内《うち》に、頭《あたま》から尾《を》の尖《さき》まで舊《もと》の通《とほ》りの長蟲《ながむし》になつて、草叢《くさむら》に入《はひ》つて行《い》きますよ。」  恁《か》う言《い》つて話《はな》したのは、地方《ちはう》に居《ゐ》た某《なにがし》といふ宣ヘ師《せんけうし》の妹君《いもうとぎみ》で、學校《がくかう》の初級《しよきふ》を預《あづか》つた、りゝか[#「りゝか」に傍線]といふ令孃《れいぢやう》であつた。一個《ひとり》の少年《せうねん》は、其《そ》の學校《がくかう》の廣場《ひろば》に植《うわ》つた碧桐《あをぎり》の幹《みき》に背《せ》を持《も》たせ、水兵《すゐへい》のやうに腕組《うでぐみ》をしながら、藤色《ふぢいろ》に紅《くれなゐ》の※[#「糸+彖」、第3水準1-90-13]《へり》を取《と》つた上着《うはぎ》に、白茶色《しろちやいろ》の裳《もすそ》を曳《ひ》いて、小《ちひさ》なごむ靴《ぐつ》を穿《は》いた姿《すがた》を見《み》て、然《さ》も樂《たのし》げに聞惚《きゝと》れた。  髪《かみ》を引上《ひきあ》げて束《たば》ねた時《とき》より、※[#「てへん+蚤」、第3水準1-84-86]垂《かいた》れて細《ほそ》い雪《ゆき》のやうな頸《くび》にふツくりと結《むす》んだ方《はう》が、年紀《とし》より二《ふた》ツ三《み》ツ長《た》けて二十三四に見《み》えるけれども、一※[#「尸+曾」、第3水準1-47-65]《いつそう》氣高《けだか》くツて可《い》い。今日《けふ》のりゝか[#「りゝか」に傍線]の顏《かほ》を見《み》つゝ、此《こ》の外國《ぐわいこく》の蛇《へび》の話《はなし》を聞《き》いて居《ゐ》る少年《せうねん》は、自分《じぶん》の師《し》で且《か》つ年上《としうへ》のりゝか[#「りゝか」に傍線]を目《もく》するに、國王《こくわう》に不思議《ふしぎ》な物語《ものがたり》をする宰相《さいしやう》の姫君《ひめぎみ》、を以《もつ》てした。少年《せうねん》は此頃《このごろ》(あらびやんないと)を讀《よ》んで、魂《たましひ》を奪《うば》はれて居《ゐ》たのであるから。  そして自《みづか》らひそかに、妹《いもうと》ぎみの如《ごと》き一|人《にん》のきゝてを以《もつ》て任《にん》じて居《ゐ》たに違《ちがひ》はなからう。 [#5字下げ]中[#「中」は中見出し]  一體《いつたい》此頃《このごろ》學校《がくかう》の二階《にかい》にあつた寄宿舍《きしゆくしや》では、專《もつぱ》ら「雪中※[#「木+誨のつくり」、第3水準1-85-69]《せつちうばい》[#入力者註 末広鉄腸の政治小説。主人公は国野基という青年志士。彼のつくる正義社に武田猛という過激派の社員がいる。]、」が行《おこな》はれて、基《もとゐ》だの、猛《たけし》だの、名士《めいし》と豪傑《がうけつ》ばかり居《ゐ》たのである。が、這《この》少年《せうねん》は談話室《だんわしつ》に備《そな》へてあつた、郵便《いうびん》報知新聞《はうちしんぶん》の、行商《かうしやう》りうしあす[#「りうしあす」に傍線]が、魔法使《まはふつかひ》の藥《くすり》を間違《まちが》へて、驢馬《ろば》になつて薔薇《ばら》の花《はな》を食《た》べる話《はなし》、また鴻《こう》の鳥《とり》になつたぼへみや[#「ぼへみや」に傍線]の國王《こくわう》の話《はなし》などに魅入《みい》られて、道《みち》を行《ゆ》く馬《うま》をも、垣根《かきね》に咲《さ》いた薔薇《ばら》の花《はな》をも、立《た》つて凝※[#「示+見」、第3水準1-91-89]《みつ》めるやうになつて居《ゐ》たのであるから、太《いた》く此《こ》のりゝか[#「りゝか」に傍線]の風采《ふうさい》と、尾《を》の鳴《な》る蛇《へび》、結《むす》びつく蛇《へび》の話《はなし》に動《うご》かされた。  熱心《ねつしん》な新ヘ《しんけう》の信※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]《しんじや》で、淑コ《しゆくとく》を備《そな》へて、學問《がくもん》があつて、宗ヘ《しうけう》のために身《み》を犧牲《いけにへ》にして、波濤萬里《はたうばんり》を越《こ》えて、合衆國《がつしうこく》から家兄《かけい》とともに日本《につぽん》の然《しか》も僻陬《へきすう》の地《ち》に來《く》る位《くらゐ》、見識《けんしき》も氣象《きしやう》もあつて、其上《そのうへ》心《こゝろ》優《やさ》しいりゝか[#「りゝか」に傍線]、課業《くわげふ》を果《は》てて後《のち》も、數學《すうがく》や、漢籍《かんせき》や、他《た》の諸先生《しよせんせい》とともには退《ひ》かず、二階《にかい》に上《あが》つて、彼方《かなた》此方《こなた》寄宿舍《きしゆくしや》の彼《か》の名士《めいし》豪傑《がうけつ》の部屋々々《へや/\》を見舞《みま》ふのが例《れい》であつた。  然《しか》るについ二三|日《にち》前《まへ》、りゝか[#「りゝか」に傍線]は平時《いつも》の通《とほ》り寄宿舍《きしゆくしや》を音信《おとづ》れて、五番室《ごばんしつ》の戸《と》を外《そと》からこと/\と叩《たゝ》くと、響《ひゞき》[#底本では「響」の「即のへん」に代えて「皀」]に應《おう》じて内《うち》へ請《しやう》[#底本では「請」は「言+睛のつくり」]じた、六疊《ろくでふ》の部屋《へや》に立向《たちむか》ふと、煙草《たばこ》[#底本では「煙」は「(ひへん)+(西/土)」]の煙《けむり》が朦々《もう/\》と天井《てんじやう》を籠《こ》めて居《ゐ》た。劇藥《げきやく》の粉《こな》を嗅《か》ぐよりも可恐《おそろし》い、其《そ》の毒《どく》に面《おもて》を打《う》たれて、りゝか[#「りゝか」に傍線]は血《ち》が上《あが》つて、背後《うしろ》へ卒倒《そつたう》しようとしたことがある。  元來《ぐわんらい》基督ヘ《キリストけう》組織《そしき》の學校《がくかう》で、飲酒《いんしゆ》と喫煙《きつえん》は嚴禁《げんきん》してあつた。校外生《かうぐわいせい》の制裁《せいさい》は兎《と》も角《かく》も、豫《あらかじ》め誓《ちかひ》を立《た》てた寄宿《きしゆく》だけには、此《こ》の禁《きん》を犯《をか》す※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]《もの》はなからうと信《しん》じて居《ゐ》たりゝか[#「りゝか」に傍線]は、五番室《ごばんしつ》の其《そ》の失態《しつたい》を悲《かな》しんで、昨日《きのふ》も、一昨日《をとゝひ》も、病氣《びやうき》だといつて引籠《ひきこも》つたのである。  五番室《ごばんしつ》の塾生《じゆくせい》は、松崎《まつざき》といふ、二十四五の色《いろ》の白《しろ》い、きちんと髪《かみ》を分《わ》けた、はんけちにも額《ひたひ》にも香水《かうすゐ》の滴《したゝ》る美男子《びなんし》。  之《これ》にりゝか[#「りゝか」に傍線]が氣《き》があるといふ評判《ひやうばん》だつた。  大方《おほかた》其《それ》は彼《か》の松崎《まつざき》が、其《そ》の香水《かうすゐ》も手巾《はんけち》も靴《くつ》も白皙《はくせき》なる其《そ》の顏《かほ》、手足《てあし》とともに、極《きは》めて西洋的《せいやうてき》である處《ところ》から、割出《わりだ》した風説《ふうせつ》であらう。  松崎《まつざき》は才子《さいし》である。譬《たと》へばいんぶりい[#「いんぶりい」に傍線]氏の會話《くわいわ》の諳誦《あんしよう》を怠《なま》けて、日課《につくわ》の質問《しつもん》に窮《きう》したにせよ、人《ひと》は皆《みな》知《し》りません、忘《わす》れましたといつて引下《ひきさが》るのに、松崎《まつざき》は愁然《しうぜん》として、(りゝか[#「りゝか」に傍線]、濟《す》みません)とばかり差俯向《さしうつむ》いて、哀《あはれ》を請《こ》ふのである。りゝか[#「りゝか」に傍線]は其樣子《そのやうす》を見《み》ると、氣《き》の毒《どく》さうに、(お※[#「さんずい+慍のつくり」、第3水準1-86-92]習《さらひ》をしませんでしたか。) (唯々《はい》、否《いゝえ》、多分《たぶん》お※[#「さんずい+慍のつくり」、第3水準1-86-92]習《さらひ》をしなかつたのでありませう、何故《なぜ》なら、私《わたくし》は答《こたへ》が出來《でき》ませんから、)といつて益々《ます/\》しをらしい。  りゝか[#「りゝか」に傍線]は之《これ》を聞《き》くと、常《つね》に同情《どうじやう》[#底本では「情」は「青」にかえて「睛のつくり」]を表《へう》して、深《ふか》く過怠《くわたい》を命《めい》ぜぬが例《れい》であつた。異《おつ》う樣子《やうす》の可《い》いことを言《い》つてはぐらかすぢやあないか、と流眄《しりめ》にかける※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]《もの》もあつた。毛色《けいろ》の變《かは》つた御機嫌《ごきげん》の取方《とりかた》だ、と冷《ひや》かす※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]《もの》もあつた、が、いづれ、罵《のゝし》る※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]《もの》にも、冷《ひや》かす※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]《もの》にも、りゝか[#「りゝか」に傍線]が渠《かれ》を愛《あい》することは齊《ひと》しく認《みと》められて居《ゐ》たのであるが。……  殊《こと》に前日《ぜんじつ》、體操場《たいさうば》のふらこゝ[#「ふらこゝ」に傍点]に乘《の》つた一人《ひとり》が、はずんで振《ふ》つた鐵《てつ》の輪《わ》が、折惡《をりあし》く行合《ゆきあ》はせた松崎《まつざき》の、身《み》を交《かは》す暇《ひま》なく、額《ひたひ》が破《やぶ》れて、血《ち》の流《なが》るゝ怪我《けが》をしたので、療養《れうやう》のため寄宿舍《きしゆくしや》を辭《じ》して、暫《しばら》く自宅《じたく》に引籠《ひきこも》つたことがあつた。  りゝか[#「りゝか」に傍線]は鞍《よこぐら》を置《お》いた馬《うま》に乘《の》つて、革《かは》の鞭《むち》を擧《あ》げながら、急《いそ》ぎ松崎《まつざき》の宅《たく》に怪我《けが》を見舞《みま》つて、そして唇《くちびる》も、顏《かほ》の色《いろ》も褪《さ》めるまで血《ち》の色《いろ》を失《うしな》ひ、繃帶《はうたい》をして寢《ね》て居《ゐ》る※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]《さま》を、正面《しやうめん》から見《み》るに忍《しの》[#底本では「仞のつくり/心」]びない、といつて、顏《よこがほ》で取《と》つた一|葉《えふ》の寫眞《しやしん》を送《おく》つて、學校《がくかう》でした過失《あやまち》なれば、監督《かんとく》の行屆《ゆきとゞ》かぬ自分《じぶん》の罪《つみ》を謝《しや》するため、りゝか[#「りゝか」に傍線]が付添《つきそ》つて看病《かんびやう》をすると思《おも》つて枕許《まくらもと》に置《お》いて欲《ほ》しいといふ、細《こま》やかな心盡《こゝろづく》し。  顏《よこがほ》の寫眞《しやしん》は鼻《はな》高《たか》く、目《め》が大《おほ》きく、髪《かみ》が房々《ふさ/\》と、頤《おとがひ》細《ほそ》く、氣高《けだか》く美《うつく》しく見《み》えて、りゝか[#「りゝか」に傍線]の寫眞《しやしん》の内《うち》でも最《もつと》も容色《ようしよく》の勝《すぐ》れたのである。然《さ》らぬだに兎角《とかく》人《ひと》の口《くち》の端《は》に懸《かゝ》つたのが、其事《そのこと》のあつてからは、又《また》仰々《きやう/\》しくなつた。  けれども(あらびやんないと)に於《お》ける妹君《いもうとぎみ》、※[#「皀+卩」、第3水準1-14-81]《すなは》ち此處《こゝ》に面白《おもしろ》い蛇《へび》の物語《ものがたり》を聞《き》いて居《ゐ》る少年《せうねん》は、其《そ》の嘗《かつ》て學校《がくかう》の歸途《かへるさ》に他《た》の小兒《せうに》と喧嘩《けんくわ》をして、對手《あひて》を痛《いた》めつけて追遣《おひや》つたは可《い》いが、自分《じぶん》も砂《すな》まぶれになつて擦切《すりき》つた二《に》の腕《うで》を甜《な》めて居《ゐ》る背後《うしろ》に、おなじ歸途《かへるさ》なるりゝか[#「りゝか」に傍線]が立《た》つて、あれほど言《い》つて置《お》くに、何故《なぜ》喧嘩《けんくわ》をする、汝等《なんじら》の敵《てき》を愛《あい》せよ、貴方《あなた》は忘《わす》れました、といつて、※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]《なみだ》ぐんだことを知《し》つて居《ゐ》る。  尚《なほ》過日《くわじつ》、松崎《まつざき》とりゝか[#「りゝか」に傍線]と、少年《せうねん》が之《これ》を伴《ともな》つて郊外《かうぐわい》を※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]行《ある》いた時《とき》、唯《と》ある田圃道《たんぼみち》の畝《あぜ》を仕切《しき》つて、菊《きく》の花《はな》が植《う》ゑてあつて、※[#「廣−广」、第3水準1-94-81]菊《きぎく》の輪《りん》の大《おほき》いのを松崎《まつざき》が一枝《ひとえだ》折《を》つて、りゝか[#「りゝか」に傍線]の胸《むね》に插《さ》さうとすると、(花《はな》は難有《ありがた》いけれども、之《これ》はあなたの所有《しよいう》ではありません、盗賊《どろばう》ね!)といつて可恐《おそろし》い顏《かほ》をして見《み》せて、笑《わら》つて受取《うけと》らなかつたことも知《し》つて居《ゐ》るから、人《ひと》の風説《うはさ》を聞《き》いても、少《すこ》しも信《しん》じなかつた。又《また》それが若《も》し事實《じじつ》であつたら、僕《ぼく》は、りゝか[#「りゝか」に傍線]をこそぐり殺《ころ》して了《しま》つて、……追《お》つて來《きた》るべき其《そ》の悲《かなし》い運命《うんめい》を見《み》ないやうにすると、今《いま》も食堂《しよくだう》で氣※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《きえん》を吐《は》いた。妹君《いもうとぎみ》は、食卓《しよくたく》に足《あし》を蹈《ふみ》かけて、腕白《わんぱく》な、其《その》まゝ硝子窓《がらすまど》から廣庭《ひろには》へ飛下《とびお》りて、其處《そこ》の雜草《ざつさう》の中《なか》に輪《わ》を仕懸《しか》けた、クリツケツトの對手《あひて》をと、槌《つち》を取《と》つて※[#「目+句」、第4水準2-81-91]《みまは》したけれども、いづれも、猛《たけし》、基《もとゐ》の輩《やから》、然《さ》る子供《こども》らしい遊戲《いうぎ》の、仲間入《なかまいり》をするものといつては無《な》かつたので、徒《いたづ》らに草《くさ》の葉《は》を敲《たゝ》きながら、唯《と》見《み》ると、一箇《いつこ》石造《せきざう》の井戸《ゐど》の輪《わ》が轉《ころ》がつて居《ゐ》た。  此《これ》は、賄方《まかなひかた》が新《あらた》に井戸《ゐど》を掘《ほ》ると云《い》つて用意《ようい》をしたのが、經濟上《けいざいじやう》、其《その》まゝ沙汰《さた》止《やみ》になつて居《ゐ》たものである。  少年《せうねん》は目《め》を付《つ》けて、飜然《ひらり》、其上《そのうへ》へ飛上《とびあが》る、爪《つま》さきで動《うご》かして、くる/\とまはしたが、クリツケツトの槌《つち》で、體《たい》を支《さゝ》へて前《まへ》へ出《で》るのは然《さ》までにはない、背後《うしろ》へ身《み》を引《ひ》くのが離《はな》れ業《わざ》であつて、少年《せうねん》は幾度《いくたび》も體《たい》の中心《ちうしん》を失《うしな》つて仰向《あをむ》けに草《くさ》の上《うへ》へ轉《ころ》んだ。  寄宿舍《きしゆくしや》の窓《まど》からは頬杖《ほゝづゑ》を支《つ》いたのやら、頤《おとがひ》を支《さゝ》へたのやら、半身《はんしん》乘出《のりだ》したのやら、四《よ》ツ五《いつ》ツ名仕《めいし》と豪傑《がうけつ》の顏《かほ》が出《で》て、井戸側《ゐどがは》から落《お》ちる※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]《ごと》に、拍手喝采《はくしゆかつさい》。  輝《かゞや》く太陽《たいやう》の色《いろ》に面《おもて》を染《そ》めて、最後《さいご》にむツくと起《お》きて、又《また》石《いし》の上《うへ》へ飛上《とびあが》つた時《とき》、思《おも》ひがけずりゝか[#「りゝか」に傍線]が校舍《かうしや》の石段《いしだん》を下《くだ》つて來《き》たのであつた。  惟《おも》ふに、嬌瞋《けうしん》を發《はつ》して二日《ふつか》休《やす》んだ彼《か》の五番室《ごばんしつ》の、既《すで》[#底本では「既」は「皀+旡」]に此頃《このごろ》は額《ひたひ》の疵《きず》が癒《い》[#底本では「癒」は「愉のつくり」に代えて「兪」]えて再《ふたゝ》び寄宿舍《きしゆくしや》へ歸《かへ》つて居《ゐ》た松崎《まつざき》が、禁《きん》を犯《をか》して盟《ちかひ》を破《やぶ》つた莨《たばこ》に激《げき》して、二階《にかい》に寄《よ》らない、歸《かへり》がけであらう。  ※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]然《いきなり》、(貴方《あなた》おもしろいことをなさいます、)と輕業《かるわざ》の前《まへ》に立塞《たちふさ》がつたから、少年《せうねん》は慌《あわたゞ》しく井戸側《ゐどがは》を乘棄《のりす》てて、極《きまり》の惡《わる》さうに後退《あとすざり》をして、りゝか[#「りゝか」に傍線]に瞻《みまも》らるゝ面《おもて》晴《はれ》[#底本では「晴」の「つくり」は「睛のつくり」]がましく、日《ひ》の光《ひかり》の眩《まぶし》さ、碧桐《あをぎり》の蔭《かげ》に入《はひ》つたのである。  りゝか[#「りゝか」に傍線]は日曜日《にちえうび》の會堂《くわいだう》に集《あつま》る小兒《こども》にも、渠等《かれら》學校《がくかう》の生徒《せいと》に、日課《につくわ》をヘ《をし》へるのに馴《な》れて、日用《にちよう》の日本語《につぽんご》はすら/\と綴《つゞ》ることを得《え》たが、何《なに》を何《ど》うして間違《まちが》へたか、此《こ》のおもしろい[#「おもしろい」に傍点]といふ言葉《ことば》の範圍《はんゐ》を、極《きは》めて廣《ひろ》く扱《あつか》つた。  をかしな人《ひと》だ、と言《い》ふ處《ところ》へも、飛《と》んでもない、と言《い》ふ場合《ばあひ》にも、不思議《ふしぎ》な、と言《い》ふべき處《ところ》でも、怪《け》しからん、といふ事《こと》にも、すべて、一《いつ》のおもしろい[#「おもしろい」に傍点]なる言《ことば》を以《もつ》て當嵌《あては》めるのである。  勿論《もちろん》、喧嘩《けんくわ》をしてたしなめられた時《とき》も、おもしろい[#「おもしろい」に傍点]事《こと》をしては可《い》けませんといふのを聞《き》いたし、今《いま》輕業《かるわざ》を叱《しか》つた時《とき》も、恁《か》ういつた、屹《きつ》と松崎《まつざき》の怪我《けが》を聞《き》いて吃驚《びつくり》した時《とき》には、大變《たいへん》とあらうのに、まあ、おもしろい!と言《い》つたであらう。  で、爰《こゝ》に少年《せうねん》は、危《あぶな》いといふことから、草叢《くさむら》といふことから、こんな暖《あたゝか》な日《ひ》といふ處《ところ》から、一種《いつしゆ》の意味《いみ》が連續《れんぞく》した。おもしろい蛇《へび》の話《はなし》を聞《き》いたのであつた。  繰返《くりかへ》すまでもない、鴻《こう》の鳥《とり》になつたぼへみや[#「ぼへみや」に傍線]の王樣《わうさま》の話《はなし》、驢馬《ろば》になつた男《をとこ》の話《はなし》に興味《きようみ》を持《も》つて、髪《かみ》の長《なが》い老※[#「にんべん+曾」、第3水準1-14-41]《らうそう》や、目《め》の窪《くぼ》んだヘ師《けうし》や、伽藍《がらん》の屋根《やね》や、古《ふる》い橋《はし》や、幽邃《いうすゐ》な川《かは》や、巖窟《がんくつ》の蛙《かへる》、棟《むね》の烏《からす》、薔薇《ばら》の花《はな》はいふに及《およ》ばず、木《き》にも草《くさ》にも心《こゝろ》を置《お》いて居《ゐ》る好奇心《かうきしん》の強《つよ》[#底本では「強」は「繦−糸」、417-3]い少年《せうねん》は、此時《このとき》、りゝか[#「りゝか」に傍線]の※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]《さま》を、九十九夜《あらびやんないと》の物語《ものがたり》をする姫《ひめ》のやうに思《おも》ひ取《と》つて、やがて其《それ》は、國君《こくくん》の心《こゝろ》を慰《なぐさ》むるために、不可思議《ふかしぎ》なるiケ《ふくいん》を齎《もた》らして、天《てん》より下《くだ》し給《たま》へる仙媛《せんゑん》であらう。其《そ》の美《うつく》しさも、氣高《けだか》さも、人《ひと》には過《す》ぎると思《おも》つたのである。  恁《かゝ》る少年《せうねん》も、以前《いぜん》、渠《かれ》が家《いへ》とおなじ町内《ちやうない》の、唯《と》ある荒物屋《あらものや》の、仔細《しさい》あつて近隣《きんりん》の人々《ひと/″\》に忌《い》み※[#「りっしんべん+曾」、第3水準1-84-62]《にく》まれて商《あきなひ》がなくなり、寂《さび》れ果《は》てた店前《てんぜん》に、一《ある》日曜日《にちえうび》の朝《あさ》をはじめとして、基督《キリスト》のヘ會《けうくわい》が開《ひら》かれた時分《じぶん》には、其《そ》の家《いへ》の前《まへ》を通《とほ》ることも快《こゝろよし》としなかつたのに。……  軈《やが》てりゝか[#「りゝか」に傍線]が奏《かな》づるオルガンの音《ね》と、讚美歌《さんびか》の聲《こゑ》を怪《あやし》んで、恐々《こは/″\》差覗《さしのぞ》いて見《み》るやうになり、立留《たちど》まつて聞《き》くやうになり、立草臥《たちくたび》れて腰《こし》を掛《か》けるやうになると、いつの間《ま》にか座敷《ざしき》に入《はひ》つて、りゝか[#「りゝか」に傍線]の手《て》から繪札《カアド》を貰《もら》ふやうになつた。  鳥《とり》が人間《にんげん》の言《ことば》を語《かた》つたら、聞《き》く人《ひと》はいかに其《そ》の耳《みゝ》を傾《かたむ》けるであらう。聞馴《きゝな》れたりゝか[#「りゝか」に傍線]の、殊《こと》に髪容《かみかたち》も服裝《みなり》も、我《わ》が人間界《にんげんかい》にあるまじき、雲《くも》に駕《が》した天女《てんによ》のやうな人《ひと》の口《くち》から、おなじ言葉《ことば》を以《もつ》てものいはるゝ、一言一句《いちごんいつく》と雖《いへど》も、能《よ》く胸《むね》に響《ひゞ》いて、心《こゝろ》を動《うご》かされ、從《したが》つて人情《にんじやう》も、我《われ》にかはらず、優《やさ》しさも、可懷《なつか》しさも異《ことな》ることのないのが知《し》れると、敢《あへ》ていはゆる耶蘇ヘ《やそけう》の信徒《しんと》といへば、必《かなら》ず磔《はりつけ》にかゝつて死《し》ぬものとは限《かぎ》らないことが解《わか》つて、追《おつ》て、あからさまに假《かり》の其《そ》の荒物屋《あらものや》の店《みせ》の、日曜學校《にちえうがくかう》へ出入《でいり》したのである。  然《さ》れば、珍《めづ》らしいものに接《せつ》して、聲《こゑ》を聞《き》いて、綺麗《きれい》な繪《ゑ》を得《え》らるゝ日曜《にちえう》を樂《たのしみ》にして居《ゐ》たが、一日《あるひ》齒《は》が痛《いた》んで行《ゆ》かなかつた。そして學校《がくかう》の濟《す》む時分《じぶん》、町家風《まちやふう》なる父《ちゝ》の住居《すまひ》の、二階《にかい》の窓《まど》から齲齒《むしば》を壓《おさ》へて、茫然《ぼんやり》往來《ゆきき》を※[#「示+見」、第3水準1-91-89]《なが》めて居《ゐ》ると、内儀《ないぎ》、娘《むすめ》、魚屋《さかなや》、丁稚《でつち》の行交《ゆきか》ふ中《なか》を、今日《けふ》は何云《どうい》ふ道《みち》を取《と》つたか、りゝか[#「りゝか」に傍線]は馬《うま》に乘《の》つて、大《おほき》く目《め》の下《した》に顯《あら》はれた。帽子《ばうし》[#底本の「帽」は「冒」に代えて「瑁のつくり」]を飾《かざ》[#底本では「飾」の「飲のへん」に代えて「飮のへん」、418-7]つた眞白《ましろ》な鳥《とり》の羽《はね》は、颯《さつ》と向《むか》う前《まへ》の山《やま》おろしに戰《そよ》いで、見《み》るに、ちら/\する目《め》の前《まへ》へ、弗《ふ》と打仰《うちあふ》いだ、氣高《けだか》い顏《かほ》は、廂《ひさし》の上《うへ》で、高《たか》く少年《せうねん》と面《おもて》を合《あ》はせた。  (お内《うち》は此處《こゝ》なの)といふ内《うち》も上下《うへした》に身《み》の搖《ゆ》るゝ絲《いと》のやうな後姿《うしろすがた》は馬《うま》の尾《を》を吹《ふ》く風《かぜ》に靡《なび》いて、町中《まちなか》の樫《かし》の梢《こずゑ》にかくれた。  翌日《あくるひ》、早速《さつそく》、次《つぎ》の日曜《にちえう》までは待《ま》たれないで、りゝか[#「りゝか」に傍線]の《やかた》へ、可懷《なつかし》い顏《かほ》を見《み》ようと思《おも》つて行《い》つた。もとより家《うち》へ遊《あそ》びに來《こ》よ、と日曜※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]《にちえうごと》に言《い》はれたのであつたけれども、親《おや》の手《て》から苧環《をだまき》の絲《いと》を身《み》につけて、寶剣《はうけん》でも提《ひつさ》げて入《い》らなければ、心細《こゝろぼそ》く、樣子《やうす》の知《し》れぬ西洋《せいやうくわん》へ、一人《ひとり》行《ゆ》くのは良《やゝ》氣怯《きおくれ》がしたために、其日《そのひ》まで猶豫《ためら》つたくらゐであつたが、山國《やまぐに》の城跡《しろあと》の大手《おほて》を其《その》まゝに構《かま》へて、森《もり》の中《なか》に巍然《ぎぜん》として聳《そび》えた三※[#「尸+曾」、第3水準1-47-65]樓《さんそうろう》、※[#「皀+卩」、第3水準1-14-81]《すなは》ちうゐりえむ[#「うゐりえむ」に傍線]家《け》の彼處《かしこ》の一室《いつしつ》にりゝか[#「りゝか」に傍線]ありと思《おも》ひながら、我《わ》が亞細亞《アジア》人種《じんしゆ》を隔《へだ》[#底本では「隔」は「儿」に代えて「希−布」]てたやうな、晝間《ひるま》も、嚴《いかめ》しく鎖《とざ》し固《かた》めた門《もん》を開《あ》ける術《すべ》[#底本では「衙」の「吾」に代えて「朮」]も知《し》らず、行※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]《ゆきもど》りして、やがて、裏手《うらて》へ廻《まは》ると藪《やぶ》の中《なか》に畝《うね》り畝《うね》り路《みち》と竝《なら》んだ板※[#「塀」の「并」に代えて「餠のつくり」、第3水準1-15-58]《いたべい》があつて、淋《さび》しいから人通《ひとどほり》はない。  表門《おもてもん》からは森《もり》に隱《かく》れて、僅《わづ》かに其外壁《そのそとべい》ばかり仰《あふ》がるゝが、其處《そこ》からは却《かへ》つて窓《まど》も見《み》え、萌※[#「廣−广」、第3水準1-94-81]《もえぎ》の窓掛《まどかけ》も見《み》えて、そして窓《まど》の前《まへ》の欄干《らんかん》も見《み》えたので、藪《やぶ》をうしろに立《た》つて居《ゐ》ると、寂寞《せきばく》として人《ひと》の氣勢《けはひ》もない。大廈《たいか》の窓《まど》へ、天《てん》から降《ふ》つたる如《ごと》く、衝《つ》と、藤色《ふぢいろ》の姿《すがた》があらはれたが、件《くだん》の欄干《らんかん》の内《うち》なる高樓《たかどの》の廊下《らうか》と覺《おぼ》しき處《ところ》へ、身《み》を投出《なげいだ》したやうに立《た》つた。  遙《はるか》に響《ひゞ》く流《ながれ》の音《おと》、其《そ》の大河《おほかは》の景色《けしき》をや打眺《うちなが》むる? しかし少年《せうねん》は、心咎《こゝろとがめ》がしたので、飜然《ひらり》と身《み》を躱《かは》して忍《しの》んだが、這《こ》はいかに、背《せ》に打掛《うちか》けた板※[#「塀」の「并」に代えて「餠のつくり」、第3水準1-15-58]《いたべい》は恰《あたか》も戸《と》で、不意《ふい》にばくりと口《くち》を開《あ》けたから、吃驚《びつくり》して飛退《とびの》いた目《め》の前《さき》へ、藤色《ふぢいろ》の姿《すがた》、板※[#「塀」の「并」に代えて「餠のつくり」、第3水準1-15-58]《いたべい》のK《くろ》い處《ところ》へ色《いろ》も映《うつ》るやうに鮮麗《あざやか》にあらはれて、おゝ!――それから《やかた》で日《ひ》を暮《くら》して歸《かへ》つた。  で、足《あし》も繁《しげ》くなると、言葉《ことば》も覺《おぼ》え、字《じ》も習《なら》つた。少年《せうねん》は詰《つま》り恁《かゝ》りしため、朋友《ほういう》には疎《うとん》ぜられ、ヘ師《けうし》には※[#「りっしんべん+曾」、第3水準1-84-62]《にく》まれて、己《おの》が市立《しりつ》の學校《がくかう》には籍《せき》を置《お》き兼《か》ねたために、件《くだん》のヘ會《けうくわい》の手《て》で開《ひら》かれた學校《がくかう》に轉《てん》じたのであつた。  然《さ》れば椅子《いす》にかゝり、卓子《テイブル》に向《むか》つて、親《した》しくりゝか[#「りゝか」に傍線]のヘ《をしへ》を請《う》くるやうになつて、愛《あい》の念《ねん》は益々《ます/\》深《ふか》くなり掾sまさ》り、おのが身《み》に取《と》つて、此上《このうへ》に又《また》もののないやうな思《おもひ》がして、果《はて》は、相《あひ》對《たい》する時《とき》は、恐《おそ》るゝとはなしに、頭《かうべ》を低《た》るゝやうにもなつた。 [#5字下げ]下[#「下」は中見出し] 「りゝか[#「りゝか」に傍線][#底本には傍線がない]さん、尾《を》の尖《さき》の鳴《な》る蛇《へび》は日本《につぽん》にも居《ゐ》ようと思《おも》ふんです。」  うゐりえむ[#「うゐりえむ」に傍線]家《け》の令孃《れいぢやう》は、片手《かたて》をふつくりした其《そ》の胸《むね》にあてて、打傾《うちかたむ》き、 「否《いゝえ》、そんなものは私《わたくし》の故郷《こきやう》にだつて居《を》りはしませんよ。」 「何故《なぜ》、それでも此間《こなひだ》藪《やぶ》の中《なか》を通《とほ》るつて言《い》つたでせう。」 「あの、然《さ》うね、學校《がくかう》の庭《には》で言《い》ひましたつけ。其《それ》はね、つい私《わたくし》が思違《おもひちが》ひをしたんです。いつか佛蘭西《フランス》[#底本では「蘭」は「くさかんむり/闌」]の田舍《ゐなか》で一《ある》百姓家《ひやくしやうや》の爺《ぢい》さんが、博物《はくぶつくわん》へ獻《けん》じて、勳章《くんしやう》を貰《もら》はうと思《おも》つて、十五|年《ねん》かゝつて蛇《へび》の種類《しゆるい》を、丁《ちやう》ど三千幾種《さんぜんいくしゆ》といふのを集《あつ》めて、最《も》う些《ちつ》とと思《おも》つて、空櫃《からびつ》の中《なか》へ封《ふう》じ籠《こ》めて置《お》いた、其《そ》の箱《はこ》が壞《こは》れて、ありつたけの蛇《へび》が這《は》つて出《で》たので、毒蛇《どくじや》に咬《か》まれて人死《ひとじに》があつたといつて、罪《つみ》に行《おこな》はれたことがありましたね。」 「えゝ。」 「其中《そのなか》にだつて、そんなおもしろいのはありませんでした。譬《たと》ひ居《ゐ》ましてもね、南《みなみ》亞米利加《アメリカ》の熱帶《ねつたい》の林《はやし》の中《なか》で、人《ひと》を食《た》べる土人《どじん》だつて棲《す》むことの出來《でき》ないやうな、地獄《ぢごく》よりもつと恐《おそろ》しい處《ところ》に居《ゐ》るんでせう。お國《くに》になんぞ居《ゐ》るものですか。」と語《かた》るも憚《はゞか》るやうな調子《てうし》である。  少年《せうねん》は恍惚《うつとり》した夢《ゆめ》を見《み》るやうに目《め》を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》つて、 「僕《ぼく》は、あの、其《それ》でも屹《きつ》と居《ゐ》るんだらうと思《おも》ふんです、本當《ほんたう》です。」 「まあ、一體《いつたい》何處《どこ》に。」 「藪《やぶ》ん中《なか》に、其《それ》も直《す》ぐ此裏《このうら》なんです。ね、先生《せんせい》が僕《ぼく》を内《うち》へ入《い》れて遊《あそ》ばして下《くだ》すつた、彼《あ》の板※[#「塀」の「并」に代えて「餠のつくり」、第3水準1-15-58]《いたべい》の向《むか》うの竹藪《たけやぶ》なんです。えゝ、昔《むかし》何《なん》だつていひます。矢張《やつぱり》キリシタンといつた時分《じぶん》、禁制《きんぜい》を犯《をか》した若《わか》い女《をんな》があつて、上《かみ》へ知《し》れました。色々《いろ/\》拷問《がうもん》をしても白※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]《はくじうやう》しなかつたつていひます。それだもんだから、役人《やくにん》が一條《ひとすぢ》幾錢《いくら》づゝといふ觸《ふれ》を出《だ》すと、其《それ》こそ今《いま》のお話《はなし》のやうに方々《はう/″\》から幾千《いくせん》となく獻《けん》じたでせう。其《それ》と一所《いつしよ》に其《そ》の女《をんな》を大瓶《おほがめ》に入《い》れて埋《うづ》んだのが彼《あ》の藪《やぶ》ですつて。僕《ぼく》は何《なん》にもそんなことは知《し》らないで居《ゐ》たんですが、此間《こなひだ》お話《はなし》を聞《き》いて、おもしろくツてならないもんですから、山《やま》にでも、谷《たに》にでも、そんなものが居《ゐ》やしまいかと思《おも》ひ/\、一昨日《をとゝひ》の晩方《ばんかた》、又《また》あの裏木戸《うらきど》から入《はひ》らうと思《おも》つて、何《なに》か考《かんが》へながら少時《しばらく》立《た》つてますとね、藪《やぶ》がざわ/\して、そして雀《すゞめ》が澤山《たくさん》ちう/\ツて囀《さへづ》つて居《ゐ》たでせう。  西日《にしび》は射《さ》して暖《あたゝか》いし、何《なん》だか嬉《うれ》しいやうで、ぢつと聞《き》いて居《ゐ》たんです。さうすると、一《ひと》ツ止《や》み、二《ふた》ツ止《や》み、段々《だん/\》靜《しづか》になつて行《い》くと思《おも》ふと、何《ど》うしたんだか、チリゝン、チリゝンてツて、藪《やぶ》の中《なか》で鳴出《なきだ》したんです。  あ!………雀《すゞめ》の聲《こゑ》が段々《だん/\》鈴《すゞ》の音《おと》に化《ば》けて來《き》たよ、とおもしろかつた内《うち》に、フト彼《あ》の尾《を》の鳴《な》るのに考《かんが》へついたの。りゝか[#「りゝか」に傍線]さん、其《それ》から垣根《かきね》も何《なん》にもないんですから※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]然《いきなり》入《はひ》つて探《さが》したけれども……見當《みあた》りはしなかつたのです。  歸《かへ》つてから人《ひと》に聞《き》いて見《み》ますとね、その昔《むかし》の其《それ》でせう。山《やま》かゞしだの、何《なん》だの、いろんなのが居《ゐ》て、今《いま》でも國《くに》ぢや、一番《いちばん》蛇《へび》の多《おほ》い處《ところ》だつて言《い》つたぢやありませんか。  占《し》めたと思《おも》つて、今朝《けさ》から探《さが》してるんですけれど、未《ま》だ何《なん》にも居《ゐ》やしない。ですが、屹度《きつと》居《ゐ》ることは居《ゐ》ます、※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]《つか》まへたら見《み》せませう。」  聞《き》いて居《ゐ》る内《うち》に、りゝか[#「りゝか」に傍線]は眞蒼《まつさを》になつたがわなゝきながら少年《せうねん》を瞻《みつ》める目《め》に、はら/\と落※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]《らくるゐ》して、それほど私《わたくし》を信《しん》ずる※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]《もの》が、どんなに眞心《まごころ》を以《もつ》てョ《たの》むやうに勸《すゝ》めても、未《ま》だ洗禮《せんれい》を受《う》けようとはせぬ。そして其《そ》の蛇《へび》を探《さが》すのも、猶《なほ》凡《すべ》てに於《おい》て、知《し》らず/\惡魔《あくま》に近《ちかづ》くのである。私《わたくし》は貴方《あなた》の喜《よろこ》ぶ顏《かほ》を見《み》たさに、ついうつかり、おもしろいことを聞《き》かせた、といつて、片手《かたて》で顏《かほ》を蔽《おほ》ひながら、その胸《むね》に十字《じふじ》を記《き》した。 底本:「鏡花全集 卷五」岩波書店    1940(昭和15)年3月30日第1刷発行    1974(昭和49)年3月4日第2刷発行 入力:山崎正之 校正: 2024年10月7日作成 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